ぽっかりとあいた両側の空白を湿った風がすり抜けていく。
こぼれ落ちていくような気がする。
最初から、きっとこうして空いていたに違いないのに。


『ずっと明日のきっと他人』


その当時、環は付き合っていた相手にひどい振られ方をしたらしい。
げらげらと楽しそうに話す環の話はどこまでが本当なのか、分からない。
「喉復活!歌お」
受付前のドリンクバーで環が入れた3つのコップの中身は、どれも烏龍茶だった。残り1つの烏龍茶にストローをさし、ずるずると音を立てていた環がマイクを掴み立ち上がる。
私の前には、環が先端を破り吹き飛ばしたストローの袋が、ぐったりと寝そべっていた。
花粉症だという環は、あごにマスク姿で、一日一回はどこかの店で耳にするアイドルの曲を歌いながら踊っていた。
だからあれば、春先だったのだと思う。

環に言われるがまま付いてきた目的地を前にして、私の足ははたりと止まった。
「友達の親の店だから、大丈夫」
環は励ましとからかいの間ぐらいの口調で私の腕を引っ張ったけれど、動く気がない私に気付いた途端、表情をこわばらせた。
それでも、私はここでひるむつもりはなかった。
「ここ、高校生が入ったらダメだよね」
「ちょっと酒飲むだけだって。まだ開店前だし、それにリナだって居酒屋くらい行くだろ」
行かない。少なくとも、同年代の友達だけでは行ったことがない。
「ここ、居酒屋じゃないよね」
街並みが異様だった。
まだ日が沈んでいないのに、日中のそれとは違うにおいが充満していた。
時空が歪んでいるような、ここだけ取り残されたような、そんな景色。
私がいるべき場所じゃない。反射的にそう思った。
環は、私とは違うみたいだったけれど。
「じゃあいいよ。リナ、帰れば」
「環は?」
「友達がいるんだよ。いいだろ、別に」
軽蔑したような眼差しと突き放すような言葉。
だけど、寂しそうに見えたのは、どうしてだろう。
それでも私は環の背中を追いかけなかったし、呼び止めることもできなかった。
環は、他人に自分の行動を制限されるのが死ぬほど嫌いだった。
私は環の友達で、環の保護者じゃなかった。

約束をしたことがある。
環はなぜか、やけにそういう形にこだわった。
「リナはあたしの親友」
環はよく親友という言葉を使った。
それから、約束。
「約束。リナとあたしはずっと親友な」
さばさばした明るくノリの良い性格と誰に対しても変わらない気の強さとで、環はクラスのリーダー格的存在だったらしい。
面倒見がよくどこか大人びた雰囲気の環は、男女問わず友達が多いことでも有名だったそうだ。
けれど、この2つの言葉を口にする時の彼女はまるで小学生の女の子のようだった。

「リナの隣は窮屈だね」
環は最後にそう言い残して、私の前から姿を消した。

あの一件から音信不通になった環が、私のバイト先であるコンビニに顔を出したのは、それからきっちり1週間後の夕方だった。
丁度、客の流れが途切れたところだった。
「守れると思ったから、約束した?」
環がきっと一番欲しくない言葉を、レジ前の私は自分から動く気配のない見慣れた茶色いプリン頭に投げかける。
違う高校に通っていた私たちは、どちらかが相手を切ろうと思えば、簡単にそして完璧に切ることができた。
ずっと親友。約束。
そのことにこだわったのは、環の方だったのに。
「分かってたよ!」
スピーカーから流れる底抜けに陽気なアニメのキャラクターらしき声が、四角い店内を上滑りする。
ガムやポケット菓子、栄養ドリンクなどを陳列しているレジ前の棚でうつむいていた環が近づいてくる。
一歩、一歩。
カウンターに肘をつく。
「最初からそんなもの、なかったのかも」
見上げる環の顔は、やっぱり、笑っていた。
「親友とか約束とか、ずっととかさ。なかったんだよそんなの。少なくとも、あたしにはずっと。本当はないって分かってるから、あたしはそれが欲しかった」
そこですとんと腑に落ちた。
ああ、そうだ。
環は辛い時に笑う。
「これはあたしの問題。リナは馬鹿正直なままでいいんだ」

私と環は他人だった。
例えそれが環の言うところの親友だとしても、他人だった。
親友だと約束したがったあの瞬間の環は、もういないのだ。
それだけのこと。
環がどんなに望んでも、私は環の望む親友にはなれない。
それがどういうものなのかすら、私には分からない。
それだけのことだ。

落とした視線の先に、つきかけたため息が止まった。
環は甘いものを好まない。太るから。
カウンターには新発売のチョコ菓子とその代金が、違約金のような顔をして取り残されている。
「ありがとうございました」
自動ドアの向こうに消えた環に私の声が聞こえないことくらい、百どころか軽く千以上は承知していた。

きっと、全て気のせいなのだ。
一時的にあったものが、元通りになくなっただけのこと。
環ひとりがいなくなっただけなのに、たったそれだけで、私が生きる現実はやけに風通しが良くなった。
きっと、全てその通りなのだ。
環はやっぱり環だった。
一周前の、丁度環と出会った頃の季節がどんなものだったのかを、一周後に立つ今の私は思い出せない。

バイト上がりの午後5時。
小雨は降りやまないまま、空だけが赤く焼けていた。
勝手なやつらめ。
マスク姿の環がそう言って、げらげらと馬鹿みたいに喜んでいればいいのに。

2017.3.3---END.

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