先輩の硬い指が、私の首筋をつたって離れた。
自分の心臓の音がうるさい。鼓動で裏返ってしまうんじゃないかと、思うほど。

天井の高い縦長の部屋には、西洋風の装飾が施されたライトが一直線上に並んで、灯っている。
蛍光灯に慣れた目には、それだけでここが人様の家なんだと気付かされる。

伸びた前髪は首をかしげる仕草と同時に流れて、先輩は、どこまでも優しく笑った。
どくん、とひときわ大きく心臓が鳴る。
暖房の効いたここは、知りもしないのに懐かしい、古いにおいが充満していた。

(先輩の嘘は、すごく正直だ)

開けた視界の先で飛び込んでくるのは、門番のような二本の大きな木と灰色の空。
動いているのか分からないほど厚く、重い、愚鈍な雲。
先輩の優しい眼差しが、突き刺さって、じくじくと。

――覚悟もないのに、嘘なんてついちゃダメだよ。もうつかれたんでしょ。やめよう。

先輩は、最後まで嘘をつきとおした。
先輩の決意を無駄にしないためには、出ていくしかなかった。

(ほらね、先輩。時間は流れて、考えられる時間なんて、はじめからどこにもなかった)

ただ先輩と一緒に笑いたかっただけ。
それだけなのに、私は間違った方向に流されていく自分を、止めることができない。

(その足で立って。その目で見て。それは、自分のためにだったけど)

先輩の嘘は、私のためのもので。
私の嘘は、先輩に見破られてしまう。

嘘をつきとおすのは、とても、苦しい。


放課後の校庭には雨のにおいが充満していた。

「ペトリコールって、言うんだよ」
「きれいな名前」

素直な言葉は簡単だった。
先輩はそんな簡単な言葉で、笑ってくれた。
まだ半袖を着ていたいつかの、先輩のまねをして言ってみた言葉は、全く似ていなくて。


(嫌なものは嫌だ)

分かっていたはず、何回も。
自分で耐えるしかないことも。それがすごく苦しいことも。言葉に意味がないことも。
だけど、いつかは必ず過ぎることも。

その上で、いらないって言ったら、どうなったんだろう。

(理由を言葉で説明できなきゃ、言ってはいけないの?)

言えなかった私には、二度と分からない。
でも、それでも、得体のしれないわだかまりが肺の奥で膨らんでいく圧迫感だけは、消えずに重みを増している。


繊細な曲線が連なった重厚な傘立ての横で、微かに歪む現実を見ていた。
雨が降りだしたら歩き出すんだと、自分に言い聞かせる。

「私は嘘がつけない」

そうだとして、先輩は、どうしてくれるの?
先輩はいつも空に手をかざして。私はいつも海に焦がれた。

「ごめんなさい。私は半分、壊れてる」

本当は、どこにも行ってほしくないのに。先輩に笑ってほしいのに。
呟いた不安定な声は跡形もなく消える。いろんなことが重くて、先輩みたいに、言えない。


冷たい風が思い出したように吹いては止む。
その度に、たいして伸びていない肩上の髪が視界を奪った。

(覚えたことが見えなくなるくらい、たくさん上書きしたんだよ。そうすれば先輩と一緒にいられるような気がして)

でも、上書きするたびに苦しくなって。
結局はまた、私の嘘に、先輩が嘘を上塗りした。

首筋に触れた先輩の指は、何の意味もなかった。
さよならにも、行かないでにも、どうにでもとれるから。

(まがいものでも。全部受け入れられたら、ねえ先輩、また一緒に笑えたかなあ)

壊れそうな雲は、それでもなお暗いだけで雨を落とさない。
自分から出ていったドアに、かける手は感覚が鈍くて。
それでも。

(ああ、先輩の家のドアはやけに重い)

好きなものの代償なら、この苦しみにも、耐えられると信じた。


「傘、」

花瓶の横、首の落ちた赤い冬牡丹のそばで静かに停止している先輩は、

「好きなの使って。たくさんあるから、そのまま捨ててくれていいよ」

私を見るなりそんなことを、いつもと同じように言う。

先輩がそうだと思ったなら。どうしたってそれが先輩にとっての真実で。
間違ってるとか、正しいとか、私の気持ちとか。
きっと、そういうのは無関係だった。

だから先輩は、いつも嘘が上手で。
だから私は、いつまでも嘘が下手で。
それでも私はあきらめきれずに、また、血まみれの嘘を吐く。

「先輩。私、雨は嫌いだから」

この嘘も受け入れられたなら。
透明人間になる学校での日常に終止符が打てないとしても、先輩とまた笑える瞬間があるのなら。

「別れたくない」

先輩の笑顔が、歪む。
膨れ上がったわだかまりに針を刺すような。弾ける。

(……ああ、違う。そうじゃない)


私はただ先輩だけを見ていればよかったんだ。
人の気持ちなんて分からないし、私が変える必要なんてない。
嘘をつくだけで精一杯なのに、他のことまで、先輩以外のことまで、気にするなんて不可能だ。

(だとしたら。もう多分私は、あの人たちの一挙一動に怯えたり傷ついたりしてあげられない)


だから、だけど、先輩。私はきっとまだ、あの人たちの言葉を完全には無視できない。
顔を見れば、罵声を浴びせられれば、無視されれば、簡単に弱ってまた今日のように嘘が解けてしまうかもしれない。

(平気じゃない。本当は辛い。だけど、それでも先輩と別れたくない)

嘘をつき続けた私は、自分の感覚まで、信じられなくなっていて。
それなのに、疑い続けることにも疲れて。

私が間違いだと思ったなら、それは誰がどう言おうと、私にとっては間違いだ。
そんな簡単なことがとてつもなく難しいことのように思えて、ただ目を、耳を、塞いでいた。

選んでいたんだ、結局は。
覚悟がないから、間違った方向ばかりに流されていただけ。
先輩と別れることが最善だなんて、あの人たちは言うけれど。それは、私にしか分からないこと。


どうして今になって、こんなにも汚く必死になって泣いているのか、自分でもよく分からない。
だから何も言えない。こんなのは言葉で説明できないし、したところで偽物だから。

だけど先輩が泣いている理由なら、何も言われなくたって、分かる気がするから。

「先輩。好き。大好き」

先輩がいるなら。何度泣いても、またきっと、私は笑う。

『S3』※「先輩のための」後日談
2017.2.3---END.

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