『こぼれ話』
※『一緒。』後日談。彼女の話。


息を、しなければ。
声が出なくても、息を、しなければ。

ただそれだけを繰り返して、何も見えない前を見つめて、息をしていた。
孤独ではなかったよ。
私の隣には、いつも、優しい人達がいた。

だけど、さみしかった。
私の隣にいる優しい人達は、いつも、私の隣にはいないことを分かっていたから。

そんなこと、誰にも言えなかった。
ただ一人、彼を除いて。

「どした?」

私の隣に現れた彼は、特別私を見つめることもなく、今日も薄っすらと目を閉じている。
手枕をして、午後の木漏れ日にまどろんでいる横顔は、ただ今日もそこにあるだけで。

分かってもらえない悲しさも、彼の前では無用だった。
分かり合うことなんてできないってことを、彼は分かっていた。

だから彼は私に言う。どした、って。
そして、言う。悪い分かんねえ、って。

分かろうとしてくれることが、とても、温かかった。
冷たくなった体にそっと息を吹き込むみたいに。
私は少しずつ、体温を取り戻していった。

――体温だけじゃない。
失くしたと思っていたものを、少しずつ、自分でも気付かないうちに取り戻していた。

「好きでした」

声が、出た。
呼吸が楽になる。
今はもう、考えなくたって息ができる。声が出る。

無理だと諦めていた、指定校の枠をもらった。
受験日が近づくにつれて、息の仕方がまたぎこちなくなった。

昼休み。常緑樹の下で。
彼は珍しく起きていて、私の隣で、白い息を空に繰り返し吐き出している。
不意に、彼がこっちを向いた。

「受かるに決まってる」

おかしいくらい、自信満々に、宣言した。
おかしくって、笑った。
呼吸が楽になる。

「ありがとう」

本当に、合格した。

*

大学生は自由だ、と教えてくれたのはミズホちゃんだったかな。
ミズホちゃんにはお兄さんがいて、そのお兄さんが大学生なんだと教えてくれたチャーちゃんはやけに嬉しそうだった。

チャーちゃんとミズホちゃんは中学生以来の親友で、チャーちゃんはお兄さんとも話したことがあるらしい。

「大学生って響きだけで、なんかかっこよく見えちゃうものなんじゃない?」と分析していたのは、橘さん。
私には分からないけど、と窓辺に背中を預けて立っている橘さんは美術館で見た肖像画の女の人みたいにきれいで、私は思わず「ほう」とため息をついた。

うわさは、たくさん聞いた。
だけどやっぱり、それはただのうわさなんだと思う。
橘さんを見ていると、話していると、分かる。

橘さんは影で私の悪口を言うような人じゃない。言いたいことがあれば、直接、どんな相手にだって言う強い人だ。

「悔しいな。あんたじゃなけりゃ、嫌いだって思えるのに」

橘さんは、彼のことが好き。だけど、だからって、「それなら私は彼を好きになりません」って宣言できるような気持ちじゃなかった。

私も、彼が好き。とてもとても、好き。
そして橘さんは、ずるいとかひどいとかいくら同情されたって、「それならもう近寄りません」って私に宣言させてくれるような人じゃなかった。

「なめないでよ。それとこれとは、話が別」

私は、彼と同じくらい橘さんのことも大好きだ。

そんなことを思い出しながら、ぼんやりと橘さんを見つめていると、突然頭上にずしりと何かがのしかかった。
温かいそれは、ふくらんだりしぼんだりしながら、ゆっくりと呼吸を繰り返している。

「うちの子がどうもお世話になりまして」
「いえいえ。ほんっと、憎たらしいほどにかわいいお子さんですね」
「ええ、そうなんですよ。綿100%の、癒し系です」

頭上で繰り広げられる会話は、今よりもずっと小さい頃、母親と先生との話にはさまれてしまった時のようなふわふわとした感じがして、どんな顔をすればいいのか分からない。
ただ、見上げて目が合った橘さんは、「言ったよね?」とでも言うみたいに眉を器用に動かして笑う。

これでいいんだって、橘さんは本当に思っている。
うわさを流している人たちが思っているよりも、私が思っているよりも、ずっともっと――強い人だったんだ。

凛とした心地良い横顔に見とれていると、しっしと手で追い払われてしまった。

「バカップル。さっさとお行き、馬鹿がうつる」
「幸せのおすそ分け」
「間に合ってます。私は十分幸せなので」

くらっとしちゃうくらいに、きれいな笑顔。
その顔も、もう、遠い場所にあって私の手には届かない。

*

入学式の前、初めて入った講義室は意外と狭かった。
正確には初めてじゃなくて、入試の時にも入ったんだけれど、緊張していてあまり覚えていなかったから。

たくさんの目が一度にこっちを向く。スーツ姿の人達は、私よりもずっと大人に見えて、怖くなった。 呼吸が苦しくなる。息の仕方が、分からなくなる。

声は、どうやって出すんだっけ。
ビーズの入った箱をひっくり返してしまった時みたい。頭の中に入っていたものが、一度にわっと散らばる。

「こんにちは」
「こんにちは」

隣の席の女の子に、オウム返しするのが精一杯だった。
折角話かけてくれたのに、どうして。どうして、声が出ないの。

「人魚姫なんだよ」

そう言って、助けてくれる彼はもうここにはいない。
こんな時になって、どれだけ自分が彼に助けられていたかのかってことに、改めて気付かされる。

――もうここには、いないけれど。
昨日、初めてかけた電話の最後、彼が唐突に話してくれたことを思い出した。

「嫌ならやめたっていいし、それが嫌なら変わればいい」

繰り返し、繰り返し。

「でも、自分で決めるんだ」

ゆっくり、息をして。
繰り返す。彼の言葉を。

私は、どうしたいのか。
息をする。
しなくちゃいけないから、じゃない。
息をしたいから、息をした。

少しずつ、呼吸が楽になる。
私は、どうする?
このままは、嫌だ。――それなら。

肺に重い空気を吸い込んだ。それから。

「人、結構集まってますね。緊張します」
「私も!みんなスーツで、って、私もそうなんだけど、なんていうか……この空気?が苦手で。絶対、一番乗りだと思ったんだけどなあ」

隣の席の女の子が、上体をイスの上でもぞもぞと動かして、いらずらっぽく笑う。
私も、つられて笑う。

「名前、なんて言うの?」

聞き覚えのない音楽がゆったりと流れる。
どうやらこれが、始業開始のベルらしい。講義室に教授らしいスーツ姿の男の人が、のっそりと入ってくる。

「また後でしゃべろう」

こそっと耳打ちする彼女に、力いっぱいうなずいた。

2016.8.21---END.
illustration by もずねこ

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