『言の葉』
※『一緒。』後日談。彼の話。



昔から、周りが怖かった。
いわゆる社会の場に出ると頭の中が真っ白になって、とりあえず知っている人の後ろに隠れてその服の裾をつかんでいた。

そんな俺のそばで何も言わず遊んでいたやつがいた。
やけに無口で、話しかけられてもほとんど笑ったりうなずいたりするだけで、だけど不思議とそいつを煙たがる子どもはいなかった。

今思えば俺も同じだったのだろう。自分に危害を加えない人間に、威嚇するほど俺たちは暇じゃない。
不思議がるところなんて一つもなかったのだ。

小学校受験をしたその男の子は俺の記憶から途中でぷつりと姿を消していて、俺は俺で受験が何なのか理解する暇もなく家庭の事情で引っ越した。
小学校に上がる前、離婚と再婚とで忙しい母親の背中はもう隠れられる場所ではなくなっていた。

こうして俺はとりあえず、社交的な人間になった。ならざるを得なかった。
そして浮気相手と家を出て行ったという父親譲りのこの顔は、それなりに役に立った。

当然、その代償もあったわけだけれど。



こんな環境で育った俺は、人見知りのくせに社交的という仮面を完璧につかいこなし、
その反動で家ではほとんど何も話さない子どもになった(元々の性格に問題があったともいえる)。

新しい父親はそんな俺をやたらと気遣い、かまいたがり、懐かせようとした。
けれどいつまでたっても尻尾を振って「パパ」と言わない俺に焦ったのだろう。

俺に話しかけた後、ため息をついたり頭をかきむしったり、ひどい時には壁をぶったり蹴ったりする姿を俺は何度も目撃した。
わざと、なのだろう。懐柔できないなら力でどうにかするしかない。

「悪い人じゃないんだけどね」

隣で悲しそうな顔をする彼女に微笑みかけてから、俺はまた正面を向いた。

明け方からぽつぽつと降り続いている雨。
校舎裏の軒下、こんな天気の日に二人きりでいるのは初めてにも関わらず、ずっと前からこうして過ごしてきたような安心感があった。



こうして、何も話さない俺とそれが原因で自身に危害が及ぶことを心配した母親は、少しでも俺が明るくなるようにと犬を買い与えた。

物で子どもの気を引いたりテレビに子どもの面倒を見させたりする親の話はよく聞くけれど、俺の場合はそれが生き物だったという話。
俺の顔が離婚した父親に似ていたせいかな、とか考えたこともあったけれど真相は分からない。

子犬らしいやんちゃさはあったものの、そいつはいわゆる利口な犬種というやつで、牧羊犬らしい穏やかさもありほとんど吠えることがなかった。

午後の大半を俺のそばで転がっているボールで遊んだり、眠ったり、座っている俺の足にあごをのせたりして過ごしているようなやつ。
気まぐれに頭をなでてやると、ゆっくりと持ち上げた尻尾をゆらゆらと揺らした。

「俺、救われたんだよな。そいつに」

そこで嬉しそうに目を細める彼女の頭をなで、俺も同じように笑った。

「だからドッグトレーナー?」

「そう。俺はそいつに会って、それからずっと犬と関わる仕事に就くって決めてたから。
それであの時の俺みたいなやつを救えればいいなと思ったっていう志望動機、面接で使えそうだよな」

にっこりとしてうなずき、ことさら表情を輝かせる彼女にちょっとした悪戯心が芽生える。
この気持ちをどう言い表せばいいのか俺はまだ知らないけれど、それは間違いなく好意的なものだ。

「お前、そいつに似てるよ」

目を丸くして、それから自分の顔を触る彼女の姿につい吹き出してしまう。

「顔じゃなくて、雰囲気がなんとなく。静かなところとかも。
あの日からずっとここに来てた理由、これかもな」

そこで急に気恥ずかしさがこみあげてきて、また正面を向いた。
横目で彼女の姿を確かめると、何故か困ったような、途方に暮れたような目でぼんやりとその手をながめている。

まるで見えない木の枝の感触を確かめるように。

どうしたのかと問いかける俺に彼女はより困った顔をして視線をさまよわせ、それから諦めたように口を開いた。

「声、出ない方がよかった?」

俺は驚いて、彼女はそんな俺にあわてて口を閉じ眉をハの字に垂らして今にも泣きだしそうな顔をした。

彼女の心は分かりやすい。分厚い仮面を標準装備している俺とは違う。

「あー、こういうところがダメなのか」

本当は、俺自身が変わればよかったんだ。その方が楽だったのに、俺の義父に対する態度は結局何も変わらなかった。
あの犬が死んでからは家にいる間中漠然とした不安が巣くい、ろくに寝付けなくなるまでに悪化してもなお。

もしかしたら彼もまた、今の彼女のような顔をしていたのかもしれない。
ただ一言「父さん」って呼んでやればよかった。灰色の空を仰ぎながらふとそんなことを思った。
後から思うのは、簡単なんだ。思ってもできないからこうして、しても仕方のない後悔をしているわけだ。

「ちょっと待って」

彼女へと向き直った俺は二度深呼吸をして顔を引き締め、それから口を開く。
彼女との距離が離れてしまわないように、これからも一緒にいるために、変わらなくちゃいけないのは俺の方だ。

「……好きだよ。声が出ても出なくても、どっちでも」

暗く沈んでいた彼女の目が、明るく輝き潤む。
彼女の尻尾が見えたなら、大雨の中を走る車のワイパーみたいにぶんぶんと揺れていたことだろう。

「うん」

後悔するなら、前向きに。そんな義父の言葉を思い出して、それを実行しようとしている俺がいて、なんだか笑えた。



どちらからともなく冷え切った指先を絡め手をつなぐ。
そこから幸せが流れ込んでくるような気がした。

2015.8.17(2016.8.21一部修正)---END.
illustration by もずねこ

inserted by FC2 system